後輩のK君がゲロゲロ夜中に吐いた翌日は、私が勤務する看護福祉専門学校の午前中の授業に来てもらいました。2人に「特別講義」をしてもらう為です。前以て学科長に許可をもらっていましたし、かつ学生さんにも上半期最後の締めの授業ということで「特別講義」の了承を得ていました。「人間関係とコミュニケーション技術」という科目を受け持っていますが2人の講義を学生は心待ちにしていました。K君は熊本の国立行政法人の研究所で博士号を持ちながら幹部研究員として活躍した人です。またI先輩は医科歯科大学を5浪?の末合格し、その後歯科医師から技工士へ転身を図るなど、経験豊富なかつ、我ら川越高校排球部のOB会長を長く務めた尊敬すべき人物なので、両人の話には私自身も大いに期待が持ちました。
90分授業でので、お2人に40分ずつ講義してもらうことを依頼していました。普段学生はバイトをしながらの人が多く授業中に半分居眠りをする場合も散見され、出来るだけ私はそれを見逃したきました。ただし、この日ばかりは誰一人居眠りする人はいませんでした。学生たちは目を爛々と輝かして、両人の話に引き込まれ明らかに聞き入っている姿はとても印象的でした。
余程に話の内容が良かったのでしょう。私のバレー部の先輩後輩の話でしたので、期待感があったのでしょう。ほぼ大成功の「特別授業」と言って良いものでした。学生F君は「色々な経験を聞きたいから」と前もって言ってましたが、大先輩がたのとても良い経験が語られたのだと思います。
前半のK君の話には学生がかなり食いつきました。彼は埼玉県で優勝し北関東大会でも競り勝ち「全国春高バレー」に出場して1回戦を勝ち上ったまでの経験を語りました。奄美は何故かバレーボールが全国一盛んである地域です。だいたい小中高で10人中8人はバレーを学校、地域で経験します。多分は1964年の東京オリンピックで日紡のチームが優勝した時期から奄美はバレーが盛んになったと私は考えています。大体祖母、母、子供3代バレーをする家も少なくないです。島は遊びがなかったので、誰かが当時島に持ち込んだものと思われます。日体大系の指導者は多かったような気がします
K君の話のクライマックスは北関東大会の話でした。アウェイの中、審判も山梨県の人で、彼がセッターとして上げた最初のトスがいきなりダブルコンタクト(当時はドリブルと呼んだ)を取られた処の話です。彼は一瞬にhometown judgeであることを理解した上で、その審判を鋭く睨みつけたと言います。「この後、ドリブル取れるものなら取ってみろ!」と心の中で激しく叫んだと言います。多分その後、審判はK君の気迫に押されたのでしょう。2度とドリブルを取ルコとはなかった、という話でした。私はとてもいい話を聞いたと思いました。他にもいい話は多かったですが、紙幅の関係で省略します。バレーボール好きの学生にはシビれる話だったと思います。
I先輩の話も良かったです。I君の様な戦績の話ではなかったですがその K君私、I先輩を指導したH先生の話でした。当時日体大から埼玉国体の為に川越高校に新任の体育教員として赴任してきました。H監督は私自身がど真ん中で指導を受けましたが所謂「暴力監督」でもありました。結局K君もその監督の指導で全国へ行った訳だからあまり悪口ばかりは言えないのですが、新人教師としてやってきたH監督の話は実に興味深いものばかりです。年明け1月3日にバレー部OBの新年会に私も出席しますが、またH監督の話で盛り上がるのは恒例行事です。H監督は現在80歳、日本バレーボール協会の専務理事まで務めた人なのですが、今は一切の公職を退き、地元中学校の外部監督をしています。その学校は現在全国大会の常連校になっています。そんな新人H先生の話をI先輩は詳しく話してくれたのですが、私の知らない新任教員時代の話もあり、とても興味深い内容でした。
そんな事で「特別講義」は大成功。学生も十分満足した授業になりました。先輩のIさん、後輩のK君どうもありがとうございました。昼食は学食で頂き、学科長はお二人にお礼をされていました。